商品詳細
中根 光一
中根邸付近(札幌市中央区南11条西7丁目辺り)
作品情報
- タイトル
- 中根邸付近(札幌市中央区南11条西7丁目辺り)
- 作家
- 中根 光一(ナカネ コウイチ)
-
1905~1972
北海道伝説のパトロン
昭和20年代まで札幌の中島公園のほとりにあった中根邸。そこにまつわるさまざまな話は、戦中戦後の厳しい時代にありながらどれも魅力にあふれている。
父・安郎は服部紙店札幌支店の初代支配人として手腕を発揮し、一代で財を成した。光一は、1905年愛知県碧南市平七に生まれる。病弱だった為、大学進学を諦め、父の元で商人になるべく教育される。1935年に父の辞任にともない支配人に就任。そして1937年、父が他界したことで、若干三十一歳にして、その屋敷と多くの財産を相続することになった。
光一はさまざまなことに興味を注ぐ人物であった。まぼろしに終わった1940年の札幌オリンピック誘致に向け、それまで国内でほとんど知られていないボブスレーの実績をつくるため、コース造成に私費を投じ、北海道大学の学生を動員して大会まで開いたこともあった。また、自宅敷地内の小屋にニュース映画会社をつくったり、ゴムのワイヤーを使用するグライダーに熱中し、中島公園などで中学生を集めて飛ばしていたこともあったという。また、コレクションも多岐にわたり、書斎には壁一面の棚にレコードが並び、レコードを自動的に装着するジュースボックスを備えていた。洋酒にも凝り、店からケースごと買い取って石蔵に納めていたほか、高級パイプを何十本も持っていた。また、紋の付いた緑色の自家用車(ビューウイック)を乗り回し、どこに行ってもかなり目立つ存在だったようだ。
だが、彼の最大の道楽は、絵画コレクションと、画家たちとの宴であった。作品の数は最盛期には数百点にも及び、かなり早い速度で買い集められていったようである。また、ひっきりなしに訪れる画家たちと酒を酌み交わすことを何よりの楽しみとしており、自宅で昼夜を問わず宴会を催していたほか、「いく代」などの高級料亭に出かけることも少なかったという。
また彼は絵の腕もなかなかであったようだ。松島正幸と上越周辺を旅したときに描いた水彩画を見ると、その感性の鋭さと描写の確かさを見ることができる。
旅行先で余技としてスケッチを楽しむとともに、酒の席で画家たちと共作に興じることもしばしばあった。光一の最大の功績は、画家たちのパトロンとしてその活動を支え続けたことであろう。1940年前後、画家たちと交流を深めた。日本が戦争に突き進んでいく時代である。徐々に深刻化していく物不足のなかにおいても、父から継いだ富のもと、彼を頼って札幌を訪れた画家を手厚くもてなし、食事を振る舞い、宿泊させ、時に作品を購入するなどしている。また、東京を焼け出され、札幌に疎開してきた田中忠雄に生活用品を提供したり、食糧事情の悪い東京の野口彌太郎にバターなどを送った記録もあり、画家たちの生活を支えていた。
そして、戦後自宅の応接間を開放して「札幌洋画研究所」を開設したことも、屋敷の接収を免れるためもあったにせよ、評価されるべきことであろう。それにより、札幌の若者に中央画壇の息吹が伝えられ、その後、全道展創立に向けての会合がしばしば開かれた。その後、莫大な財産を一代で使い果たし、翠光荘も手放し、コレクションも売り払う。1954年48歳時に見果てぬ夢を打切り、倉皇として札幌を離脱し東京へ。
1972年、66歳失意の中、死去。
「中根邸の画家たち」札幌芸術の森美術館出品作家
https://www.kotakebijyutu.com/nakajima/詳細2
- 技法
- 水彩画
- 詳細サイズ
- 10号(縦41×横54cm)
- 額縁サイズ
- 縦49.1×横62.3cm
- 状態
- ほぼ良好(時代的な古さあります)
額縁は当時のものです
- 備考
- 非常に貴重な作品
- 価格
- 220,000円(税込)
送料について
- 日本国内の場合
- 50,000円(税込)以上で送料無料
- 海外の場合
- 別途、送料が発生いたします
ご購入・お問合せについて
別倉庫に保管している作品もある為
実物を店舗でご覧になりたい方は
事前にご連絡いただけるとご用意致します
お問合せ
- 選択結果を選ぶと、ページが全面的に更新されます。
- 新しいウィンドウで開きます。