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商品詳細

モーリス ユトリロ

煙突のある街角(ユトリロⅤ)

モーリス ユトリロ(Maurice Utrillo)「煙突のある街角(ユトリロⅤ)」リトグラフ

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作品情報

タイトル
煙突のある街角(ユトリロⅤ)
作家
モーリス ユトリロ(Utrillo Maurice)

作家情報

(1883-1955)

 

1883  モーリス・ユトリロ、パリ18区ポトー通り8番地で生まれる。
    母、マリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン(シュザンヌ)
    父、不明。
1891  私生児だったユトリロを、ジャーナリスト、
    ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウスがモーリス・ヴァラドンを
    息子として認知する。
    (以後、彼は戸籍にモーリス・ユトリロと記載される)
1897  オベルヴィリエの小学校を優秀な成績で卒業する。
1898  コレージュ・ロランに入学するが、中退、職を転々とする。
1901  アルコール中毒のため、パリのサン=タンヌ病院に入院する。
    4ヶ月後、モンマニーの家に移り、最初はデッサンから、
    その後本格的に絵を描き始める。

 

【1904-08年 モンマニー時代】

 

1904  パリのサン=タンヌ精神病院に入院する。5月14日、退院する。
    6月、最初の入院の後絵画に興味をいだく。
1905  特にモンマニーとパリのセーヌ河岸を描く。
1908  印象派(シスレー、ピサロ)の影響を受け、糊や砂とともに
    石灰石やセメントを黒、ジンクホワイト、イエローオーカー、
    ウルトラマリン、マッダレーキといった限られた絵の具に混ぜて
    マチエールを創る
1909  サロン・ドートンヌに「ポン・ノートル・ダム」を出品。

 

【1910-14年 白の時代】

 

1912  サノワのルヴェルテガ博士の病院に入院する。
    以後、入退院を繰り返しながらも作品を描き続ける。
1913  この頃、ユトリロは作品に最も暖かく最も豊かな色を、
    色調を変化させて使っている。
    すでに「色彩の時代」が始まっていた。
1914  ホテル・ドゥルオーでの競売会でユトリロの作品が初めて高値で売れる。

 

【1920-55年 色彩の時代】

 

1921  ギャルリー・ベルト・ヴェイユでの個展(モーリス・ユトリロ展)
    開催以来、数多くの画廊で絵が展示される。
1925  ユトリロはセルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエダンのために
    舞台装飾をする。
1928  レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章と教育功労勲章を授与される。
1935  モーリス・ユトリロとリュシー・ヴァロールは民法上の結婚式をあげる。
1937  ポール・ペトリデスがユトリロの作品を扱う画商になる。
1947  フランシス・カルコの「過ぎし日のモンマルトル」
    (モンマルトル・ベキュ)のために、22枚のカラーリトグラフ(石版画)を制作。
1955  アンドレ・モロワの「パリ・キャピタル」のために10枚の
    リトグラフ(石版画)を制作。パリ市から金メダルを授与される。
    テルトル広場で、サシャ・ギトリィ監督の映画
    『もしパリが私に物語っていたなら』に出演する。
    モーリス・ユトリロは療養で訪れたダックスで死去。

技法
リトグラフ
詳細サイズ
縦31×横40.3cm
額縁サイズ
縦56.5×横66.5cm
状態
良好
備考
1956年作、ed,197
価格
110,000円(税込)

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